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宴の後、ロシアが握るウクライナの行方

宴の後、ロシアが握るウクライナの行方

 ウクライナで親ロシア派のヤヌコビッチ政権が崩壊しました。昨年末から、同政権に抗議する野党支持者によるデモが拡大し、2月には死傷者が出るなど深刻な事態に陥っていました。背景には親ロシア派と親EU(欧州連合)派の対立という構図もみえてきます。スポーツの祭典・ソチ冬季五輪を成功させ、宴から冷めたロシアは影響力を行使するためにどのような外交を展開するでしょうか。

■親ロ派と親欧派、対立の構図

 衝突の原因とされるのが、2013年(平成25年)11月、ウクライナ政府とEUが進めてきた包括的な連合協定の調印を巡って、政府が突然、調印の準備を凍結したことです。ロシアによる政権への圧力があったとみられています。EUとの関係強化を通じ、新たな発展を目指そうとしていたEU統合派はこれに反発。野党支持者のデモ隊と警官隊とが衝突し、混乱が深まっていたのです。

 2月下旬、ヤヌコビッチ大統領は事態収拾を図るため、野党側に譲歩する形で2015年(平成27年)3月に予定されていた大統領選の前倒し実施で合意。ひとまず事態は沈静化するかにみえました。ところが野党支持者によるデモは激しくなり、最高会議(国会)が同大統領が不在のまま解任決議を行い、事実上の政権崩壊へと発展したのです。

 ロシアもウクライナも、かつてのソ連を構成する15の共和国の一つでした。ウクライナの人口は約4500万人。天然ガスのパイプラインが通るなど、東西の経済圏を結ぶ要衝にあります。1991年(平成3年)のソ連崩壊後に独立を宣言し、2004年(平成16年)の民主化運動「オレンジ革命」では親欧政権を樹立したこともありました。親欧派のティモシエンコ元首相は職権乱用の罪で捕らわれていましたが、刑を無効にする決議が行われて釈放されました。

2月23日、ウクライナの首都キエフで、治安部隊との衝突で犠牲となったデモ参加者を追悼する人々。世界はウクライナ情勢の行方を見守っている=ゲッティ共同

2月23日、ウクライナの首都キエフで、治安部隊との衝突で犠牲となったデモ参加者を追悼する人々。世界はウクライナ情勢の行方を見守っている=ゲッティ共同

 歴史をたどると、東部はロシアに、西部は近隣のポーランドに支配されていた時代も長く、大国による勢力争いに翻弄されてきたともいえます。地域的には東・南部にはロシア系民族が多いこともあって親ロシア派です。中・西部は親欧志向が強い傾向があります。国家としては東西分裂の危機を抱えているのです。

 ウクライナの国旗を見たことがありますか。上半分は青色、下半分は黄色で描かれています。これは青空の下の小麦畑をイメージしたものです。豊かな農村地帯を抱え、欧州の穀倉地帯とも呼ばれました。かつて、ソ連では「ウクライナの小麦でソ連全体のパンが養われている」とたとえられました。1986年(昭和61年)に爆発事故を起こしたチェルノブイリ原子力発電所があったのも、ウクライナでした。

 それではロシアと周辺諸国との関係を考えるため、ソ連の誕生と歴史を振り返ってみましょう。

 ソ連は正式には「ソビエト社会主義共和国連邦」という名称でした。1917年(大正6年)にレーニンが率いたロシア革命によって帝政ロシアが崩壊。1922年(大正11年)に誕生した国です。

1917年のロシア革命の時のペトログラード(現サンクトペテルブルク)の様子。革命を経てソ連が誕生し、20世紀の世界に大きな影響を及ぼした=AP

1917年のロシア革命の時のペトログラード(現サンクトペテルブルク)の様子。革命を経てソ連が誕生し、20世紀の世界に大きな影響を及ぼした=AP

 そもそも「ソビエト」という言葉には「評議会」という意味があります。建前としては、社会主義を目指すロシア、ウクライナ、アゼルバイジャンなど15の共和国が集まって連邦を組織しましたが、主導権を握っていたのはロシアでした。

■マルクス・レーニン主義による国づくり

 中心になったのはロシア社会民主労働党です。これがその後、ソ連共産党になります。「資本主義では、激しい競争の結果、資本家、経営者が大きな力を持ち、労働者が搾取されてしまう。景気の好不況の波が発生し、恐慌と呼ばれる状態に陥ると、労働者が路頭に迷う事態を解決しよう」と考えたのです。

 その理論的な支柱となったのが、ドイツの経済学者カール・マルクスです。著書『資本論』の中で資本主義経済のメカニズムを分析し、これがいかに非人間的で、労働者にとって不利であるかということを考えました。

 レーニンはこの考え方に基づき、新しい国をつくろうとしました。これを「マルクス・レーニン主義」と呼びます。ただし、マルクスは資本主義経済の問題点を理論的に分析しましたが、「どのような社会をつくればいいのか」ということまでは提言していません。

 ソ連が実践したのは、企業を国有化し、国家が計画的に経済を運営していく政策でした。現代風にいえば、労働者を公務員にして、生活を安定させようという考え方に基づいていました。

 やがて革命指導者のレーニンが亡くなった後、スターリンが共産党書記長として絶大な力をふるい始めます。スターリンは共産党の書記係をステップに党内の情報を握り、政敵を追い落とし、地位を築いていったのです。大変疑い深い人物で、自分の地位を脅かしそうな噂には常に神経をとがらせ、疑心暗鬼にかられていました。

 「労働者に理想の国家をつくるには、まず労働者を搾取する資本家をこの世から抹殺しなければいけない。そして社会主義を脅かすスパイを抹殺しなければいけない」という発想に傾いていきます。

 やがて国内、近隣諸国に対する異常なまでの支配を強めていきます。第2次世界大戦後、米国など資本主義陣営と対峙した東西冷戦、ソ連と東欧の社会主義陣営の歩みは「戦後世界のかたち」シリーズでも取り上げてきた通りです。

 社会主義というのは、そもそもマルクスが資本主義の問題点や矛盾を科学的に分析する過程で生まれたと位置づけられました。「科学的社会主義」という言葉も生まれました。「マルクス・レーニン主義」とほぼイコールの関係にあります。だから絶対的に正しいという立場に立っているのです。

 つまり、わが国は絶対的に正しい方針に基づいて国がつくられている。科学的に正しいのだから、絶対にうまくいくはずだ。うまくいかないのは、誰か妨害しているやつがいるからに違いない。社会主義を面白く思わない、外国のスパイであろうと考えたのです。

■粛清の嵐が吹き荒れたスターリン時代

 第2次大戦前、スターリンはソ連軍にもスパイがいるのではないかと疑い、疑いをかけて将校らを次々に処刑しました。全将校の5分の1にあたる数千人が処刑されたともいわれます。これが響いて、ナチスドイツがソ連に攻め込んだ際に総崩れになったともいわれています。

 これには陰謀説があります。ナチスドイツが、スターリンによる粛清の情報をつかみ、ソ連軍をさらに弱体化させようとして、虚偽のクーデター計画情報をソ連国内に流していたともいわれているのです。

いけがみ・あきら ジャーナリスト。東京工業大学リベラルアーツセンター教授。1950年(昭25年)生まれ。73年にNHKに記者として入局。94年から11年間「週刊こどもニュース」担当。2005年に独立。主な著書に「池上彰のやさしい経済学」(日本経済新聞出版社)。長野県出身。63歳。

いけがみ・あきら ジャーナリスト。東京工業大学リベラルアーツセンター教授。1950年(昭25年)生まれ。73年にNHKに記者として入局。94年から11年間「週刊こどもニュース」担当。2005年に独立。主な著書に「池上彰のやさしい経済学」(日本経済新聞出版社)。長野県出身。63歳。

 このような粛清は大規模に農業を行っていた大地主などの資本家にも及びました。スターリンは1929年(昭和4年)ごろから農業集団化を進めました。労働者の代表が国を支配し、生産手段を全て国有化し、労働者のものにする考え方に基づいていました。

 スターリンは農民を金持ちの農民と貧しい農民に分けました。およそ900万人の富農が農地を追われ、およそ400万~500万人の富農が処刑されたともみられています。

 とりわけウクライナではこれが徹底的に実施され、農民たちは集団農場で働くことになりました。働いても働かなくても収入は同じ。農民たちは労働意欲を失い、農業生産性は低下。豊かな穀倉地帯のウクライナでも飢餓が発生し、数百万人が餓死したといわれています。ウクライナはソ連の一員になったことで、大変な悲劇に見舞われたのです。

 さらにスターリン死亡後、衝撃的なできごとが発覚します。1956年(昭和31年)2月、ソ連共産党大会第20回大会で、フルシチョフ第一書記が秘密報告を行いました。いわゆる「スターリン批判」です。これによれば、1934年(昭和9年)の共産党第17回大会に参加した中央委員と中央委員候補計139人のうち98人が銃殺されていたというのです。さらに全国から集まった代議員1956人のうち1108人が処刑されていたということも発表されました。多数の共産党の幹部や国民の代表が、逮捕され、「反革命」や「スパイ容疑」を理由に粛清されていたというのです。

 正確な数は分かりませんが、処刑されたか、あるいは強制収容所に入れられた国民は少なくとも800万人という記録もあるようです。なかには、1000万人を超えるという分析をしている学者もいます。スターリン時代は、まさに「恐怖政治の時代」でした。

 スターリンは、巨大なソ連という国家を作りましたが、多様な民族がいることに不安を感じていました。なかでも中央アジアにはイスラム教徒が非常に多いという地域性もありました。「そうした民族がまとまって、反抗してきたら大変だ」。そもそも反抗しないような仕組みを作ろうと考えました。

 マルクスはかつて「宗教はアヘンである」と言ったことがあります。アヘンとは麻薬のことです。キリスト教あるいはイスラム教という宗教を信じると、どんなにつらくても、死んだ後に天国に行けるのだと思えば、現状に我慢するだろう。これは資本主義や資本家にとっては、非常に都合のいい仕組みなのだと批判したのです。スターリンは、それを当てはめて宗教を徹底的に弾圧しました。

 ソ連は建前では自由な国であることを強調したいので、国民に宗教を信じる自由を与えました。形の上ではロシア正教の教会、あるいはイスラム教のモスクも残しましたが、実質的には徹底的に弾圧したのです。

■民族紛争のタネがまかれた

 とりわけスターリンが恐れたのは、中央アジアに居住地域が広がるイスラム教徒たちです。そこでトルコ系住民のイスラム教徒がいる地域をばらばらに分けて分断統治しました。その政策によって生まれたのがウズベク人、カザフ人、キルギス人などによる5つの共和国でした。ソ連が崩壊後、それぞれが独立国になりました。

2001年1月、チェチェン共和国の首都グロズヌイ郊外で警備にあたるロシア軍兵士。民族紛争のきっかけはスターリン時代にまでさかのぼる=AP

2001年1月、チェチェン共和国の首都グロズヌイ郊外で警備にあたるロシア軍兵士。民族紛争のきっかけはスターリン時代にまでさかのぼる=AP

 チェチェンと呼ばれる人々のことを聞いたことがありませんか。イスラム教徒が多く、人々は帝政ロシア時代に編入されて不満を持っていました。スターリンは、第2次大戦でドイツが攻めてくると、チェチェンはソ連を裏切って歯向かうのではないかと心配しました。そこでチェチェンの人々を、当時住んでいたカフカス地方から中央アジアのカザフスタンの辺りに強制的に移住させたのです。

 第2次大戦後、スターリンが亡くなってチェチェンの人たちは祖国に戻ることが許されますが、既にロシア人が住み着いていて土地が奪われた後でした。チェチェンの人たちはソ連に対する恨みを募らせました。

 今も続く独立運動や、過激なイスラム組織が生まれる背景には、こうした歴史的な苦難の経緯があったのです。旧ソ連地域での様々な民族紛争をたどると、スターリンの時代に遡ることができるといえるでしょう。

 「スターリン批判」は秘密報告でしたが、次第に世界へと伝わりました。来賓として出席していた東欧の共産党の代表団が、衝撃を受け、帰国後に党へ報告したからです。東欧に西側の情報機関のスパイが潜入し、米国に伝わるのは時間の問題でした。情報をつかんだ米紙『ニューヨーク・タイムズ』がスターリン批判を大々的に掲載しました。

 そうすると、「スターリンのようなやり方はいけない。徹底的に国民を抑えつけて、処刑するやり方はいけない」という考え方が広がり、東欧諸国が締め付けを緩め始めたのです。「雪解け」という言い方もされました。

 すると、社会主義諸国にいる人々も「もうソ連のようなやり方は嫌だ。共産党による独裁は嫌だ」と唱え始め、行動を起こします。民主化運動へと発展していきました。

■弾圧された民主化運動

 まず1956年(昭和31年)、ハンガリーで民主化運動が起きました。共産党の一党独裁を改め、複数政党にしようと動き始めたのです。ところがハンガリーにソ連軍が攻め込んで、およそ3000人が殺害されました。さらに、およそ20万人が世界に亡命していったとみられています。

 1968年(昭和43年)にはチェコスロバキア(現在はチェコとスロバキアに分離)で民主化運動が起きました。首都プラハが中心になったので「プラハの春」と呼ばれました。ちなみに、中東などで起こった民主化運動を「アラブの春」というのは、「プラハの春」をイメージしているからです。

1969年4月ごろのソ連のブレジネフ共産党書記長(右)。左はコスイギン首相。「社会主義全体の利益は一国の主権に優先する」との方針を打ち出した

1969年4月ごろのソ連のブレジネフ共産党書記長(右)。左はコスイギン首相。「社会主義全体の利益は一国の主権に優先する」との方針を打ち出した

 これもまたソ連軍によって弾圧されました。当時のソ連はブレジネフ書記長。「ブレジネフ・ドクトリン」を発表しました。おおまかな内容をご紹介しましょう。

 「一国の社会主義の危機は、社会主義ブロック全体にとっての危機であり、他の社会主義諸国はそれに無関心ではいられない。全体の利益を守るためには一国の主権は乗り越えられる」と考えたのです。

 つまり、「ソ連あるいは東欧は社会主義ブロックである。その社会主義ブロックで、どこかの国が離脱するようなことになれば、これは全体にとっての危機である。その動きを止めることが全体の利益になる」という考え方です。

 一国の主権などは認めないという考え方です。端的にいえば「ソ連のいうことを聞け」という宣言です。東欧の社会主義の国々も、ソ連崩壊まで、その支配から抜け出すことはできない状態がずっと続いてきたのです。

 国家が極端な好不況の波が生じないように経済をコントロールし、働く人々の格差を無くし、豊かに暮らせる国家を実現するという理想自体は素晴らしい考え方だとは思います。しかし、実践することはそう簡単ではありませんでした。

 国家が土地や生産手段を国有化し、みんなで働いて平等に報酬を得られるようにする一方で、働く人々の意欲や競争意識が損なわれました。創意工夫は生まれず、労働生産性が落ちてしまったのです。計画経済によって、資源を有効に使っているはずなのに、商品の使い勝手が悪かったり、魅力がなくて売れ残ったりして、資源の無駄遣いも起きました。

 通常なら、政治、経済、社会の問題点をマスコミが報道すれば、政治家や人々が気付き、改善するでしょう。ところがソ連には報道の自由はありませんでした。その結果、ソ連の政治家たちも、国内でどんな問題が起きているか把握できなくなっていたのです。

 こうしてソ連の経済は停滞し、競争力を失い、弱体化していきました。国家の立て直しが避けられなくなりました。これが東西冷戦を終結させることになった大きな要因の一つでした。

■ペレストロイカを経てソ連崩壊へ

1987年ごろのゴルバチョフ書記長。ソ連の改革を進めたが、再建することはできなかった=AP

1987年ごろのゴルバチョフ書記長。ソ連の改革を進めたが、再建することはできなかった=AP

 1985年(昭和60年)、ソ連共産党に54歳の若き指導者、ゴルバチョフ書記長が立て直しに乗り出しました。再建への3つのキーワードがありました。「ペレストロイカ(改革)」、「グラスノスチ(情報公開)」、そして米国との関係改善を進める「新思考外交」。いわゆる「冷戦」の終結です。

 ゴルバチョフ書記長は外交分野では、冷戦終結や核軍縮に成果を上げましたが、一方で国内改革は道半ばで頓挫しました。急速な改革に危機感を抱いた共産党保守派がクーデターを起こし、モスクワを離れて静養中のゴルバチョフ書記長を軟禁状態に置いたのです。1991年(平成3年)8月のことです。

 このクーデターに立ち向かったのが、ソ連を構成する共和国の一つだったロシア共和国のエリツィン大統領でした。エリツィン氏は、初めはゴルバチョフ書記長と一緒に協力をして立て直しに取り組みましたが、対立していたのです。

 ソ連共産党の保守派が指示を出しても軍は言うことを聞きませんでした。むしろ、エリツィン大統領の下に集まり、クーデターは失敗しました。結局、首謀者らはみんな捕まってしまいました。そして、ゴルバチョフ書記長は解放され、モスクワに戻ってきましたが、権力構造は逆転していました。

 ゴルバチョフ書記長はエリツィン大統領の指示を聞かざるを得なくなりました。エリツィン大統領はソ連共産党の活動停止を命令し、ゴルバチョフ書記長は追認するかたちで解散命令を出します。党員800万人のソ連共産党は解散となりました。ロシア革命から74年。あっけない終焉(しゅうえん)でした。

 その後、エリツィン大統領の下で首相に選ばれたのが現在のプーチン大統領です。ソ連時代には国家保安委員会(KGB)という秘密警察に所属していました。東ドイツに駐在し、西ドイツの情報を探っていました。

 首相を務めていたプーチン氏は独立を求めるカフカス地方のチェチェンでの紛争に軍を投入して抑え込み、実績を上げたとされています。そこでエリツィン大統領はプーチン氏を後継者として指名。2000年(平成12年)の選挙で当選し、47歳の若さで大統領になったのです。

 既に2期8年の任期(当時)を終え、一度、首相に転じました。そして2012年(平成24年)の大統領選で当選し、再び大統領になりました。反プーチンを掲げる世論も根強く、選挙運動は非常に厳しい戦いを強いられたようです。当選後に登場したプーチン氏が涙を浮かべていたのが印象的でした。憲法が改正されて大統領の任期が延長されたため、今後は2期12年という長期政権になる可能性があります。

■ウクライナ分裂の危機

ソチ五輪を成功させたプーチン・ロシア大統領はウクライナ情勢の収束に向けて、どのような判断を下すのか=共同

ソチ五輪を成功させたプーチン・ロシア大統領はウクライナ情勢の収束に向けて、どのような判断を下すのか=共同

 今後、ロシアはウクライナとの関係再構築に向けてどう動き出すのでしょうか。EUや米国はウクライナの新政権に歩み寄り、支援策を含めて新たな協力関係を築こうとしています。しかしウクライナには、ロシア海軍の基地があります。プーチン大統領は、旧ソ連を構成していた国がEUに走ることは容認したくありません。ウクライナに対する圧力を強めてくることでしょう。これにウクライナ東部の住民が呼応すれば、ウクライナは東西分裂の危機に瀕する可能性もあります。

 2月には興味深いニュースが流れました。ロシアはバルト3国のエストニアとの間で、国境画定条約に調印しました。ソ連時代の1945年(昭和20年)に引かれた両国の境界線について、エストニアが譲歩した形でした。双方が歴史認識を事実上棚上げし、領土紛争を解消して、新たな経済発展のステップにしようという狙いもあるようです。

 これによってソ連時代も含めてロシアが抱える大きな領土紛争は日本との北方領土問題だけとなりました。

 プーチン大統領は、五輪という4年に一度のスポーツの祭典を無事成功させ、目の前に横たわる外交問題や経済問題でどのような決断を下すのでしょうか。今秋にはプーチン大統領の訪日が予定されています。第2次大戦後の問題解決に向けてなんらかの結論を出し、新たな日露関係をどう描いていけばよいのでしょうか。関係づくりを見通していく上で、ウクライナで起きている問題は、決して遠い地でのできごとではないのです。

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