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所沢「産廃銀座」を立て直した女

所沢「産廃銀座」を立て直した女

 ダイオキシン野菜報道で非難を浴びた埼玉県所沢市を中心とする産業廃棄物処理業者。非難の矢面に立たされた最大手業者を、外国人も視察に訪れる「環境企業」へと大転換させた女性経営者の「12年の軌跡」を追う。

 かつて「産廃銀座」と呼ばれた埼玉県南部のくぬぎ山。そこが今、環境学習の中心地に変貌している。森林が整備され、財団法人日本生態系協会から、保全活動で「AAA」という最高ランクの評価を受けた。

瀕死の産廃会社を一変させた石坂産業社長の石坂典子

瀕死の産廃会社を一変させた石坂産業社長の石坂典子

 この「里山再生」を成し遂げたのが、1999年のダイオキシン野菜報道で糾弾され、存廃の危機に立たされた産廃業者であることはあまり知られていない。

 石坂産業(埼玉県三芳町)は、本社の敷地15万8000平方メートルの約8割を森林パークとして整備し、無料開放している。そして環境学習プログラムも提供する。

 本業でも、環境負荷を減らすため、処理ラインを屋内に作って粉塵の飛散を防ぐ。そして、独自の技術で、持ち込まれた廃棄物の97%を再資源化する。こうした取り組みが評価され、昨年、中南米10カ国の大使が視察に訪れた。

■取引先と社員が去っていく

 「会社が潰れるまで反対運動を続ける」。反対派の住民からそう敵視された会社は、わずか10年余りで一変した。地域の信頼も勝ち取った。三芳町長の林伊佐雄は、「石坂産業は町の環境政策の先を走っている」と評価して、連携を図っている。

 この大転換を成し遂げたのは、42歳の女性社長、石坂典子だった。ダイオキシン問題に揺れる会社で、30歳にして父から経営を引き継いだ。

 「反対運動が激しかった時に社長になったから、その後はショックを受けずに済みました」。石坂のその言葉は、就任当初の過酷な経営状態を如実に物語っている。

 反対派住民は、黒煙を吐き出す焼却炉を「諸悪の根源」と糾弾した。石坂産業は、投資したばかりの最新の焼却炉まで廃棄せざるをえない状況に追い込まれる。そして、10億円の借金だけが残った。

 「家業から企業へと変わらないと、淘汰されると思った」。石坂はそこから、地域との対話を始める。

 地元に溶け込むため、敷地を囲んでいた高い塀を取り払った。そして、雑木林を整備しながら、人々を引き寄せて「自然学習の中心地」へと変貌させていく。

 「森が地域との緩衝材になる」

 この大転換は、軋轢(あつれき)も生み出した。取引業者はトラックで廃棄物を運んできて、石坂産業の敷地内で順番を待つ。石坂は、環境負荷を減らすため、エンジンを切ってほしいと頼んだ。

 「おまえ、それが客に向かって吐く言葉か」。そう言ってタバコの吸い殻を投げつけられた。

 従業員教育も、古手の社員の神経を逆なでした。かつては、タバコをふかしながら作業につき、職場で酒を酌み交わすこともあった。そこにISO(国際標準化機構)の認証を取ると宣言した。夜間に講習を開こうとすると、多くのベテラン社員が「やってらんねえ」と言って辞めていった。

 新米の女性社長に降りかかる数々の難題…。中でも、最大の山は、事業の柱である焼却炉がなくなった中で、どう廃棄物を処分するか、その技術を確立することだった。それが、ゴミを資源に変えていく取り組みになっていく。

 「産廃は経済を支える重要な役割を担っている。この仕事にプライドがある」

 石坂は、産廃業者として奔走する父の姿を見て育った。その原体験が、苦境の中で支えになった。

 石坂が生まれた頃、父・好男は東京・練馬でトラック1台を購入して会社を起こした。1982年、所沢市に隣接する三芳町に会社を移している。石坂が中学生の時、工場の落成式があった。飯場の喧噪とともに、その風景は今でも記憶に強く残っている。

■「女にできる仕事ではない」

 高校卒業とともに米国に留学したが、数カ月で大学を中退して、放浪生活を始めた。それを憂いた父は、米ロサンゼルスにいた石坂を訪ねて、会社を手伝うように説得する。折れた石坂は帰国し、事務や営業を担当した。

 そんな99年、所沢産野菜のダイオキシン汚染報道が石坂産業を直撃する。くぬぎ山最大規模の焼却炉を持つことから、反対派の集中砲火を浴びた。反対運動の中心的存在だった関谷豊は、多くの産廃業者と渡り合った。だが、宿敵だったはずの石坂に会うと、他の業者と違うことを感じ取った。

 「この地域から、産廃業者がみんな逃げていった。その中で、石坂さんは我々の声を聞こうとしていた。残る企業は違うな、と思った」

 結局、石坂産業は、年商23億円の7割を稼いでいた焼却炉を廃棄することを決める。そして、企業存続の危機を迎える。本業を失って売り上げが急減すれば、資金繰りに行き詰まることは見えていた。

 この危機を回避するには、これまで通り廃棄物を受け取り、それを同業者に委託して焼却処理してもらうしかなかった。だが、創業者である父は、同業他社に頭を下げることはプライドが許さない。ならば、石坂が「会社の顔」として、頼み込めばいいのではないか。

 石坂が社長交代を口にすると、父は形相を変えた。「女にできる仕事ではない」

 そう一喝されたが、破綻回避に他の道はなかった。しかも、反対派は「石坂産業を潰すまでやめない」と息巻いていた。この対応も、女性が前面に出た方が、冷静に交渉が進められる。

 2002年、父は代表権を握ったまま、「社長」の座を石坂に譲る決断を下す。石坂は「見習い社長のようなものだった」と振り返る。だが、ここから産廃事業の大転換が始まる。

 まず石坂は、ライバル会社への焼却業務の委託に奔走した。「横流しだから、決していいことではない。でも、それで急場をしのぐしかなかった」。同業者に頭を下げて回り、時間稼ぎをしながら、1年半で業態を一変させていく。

■ピンチをチャンスに変える

巨大な作業機械も建屋の中に収めた

巨大な作業機械も建屋の中に収めた

 「設備を全て廃棄したことで、一からラインを作り直すチャンスになった」

 持ち込まれた廃材などを粉砕して、細かく分別していく。そのラインを、一から設計していった。しかも、巨大な建物の中に設備を作っていく。

 「水(湿式処理)には絶対に手を出すな」。父は石坂にそう言い続けた。廃棄物から資源を選別する場合、水に浮かせる方法もある。だが、大きな河川がない所沢地区では、環境負荷が大きい。汚泥も出る。そこで、手作業や風力によって、資源を選別していった。

 農具として使われる唐箕(とうみ)の理論も参考にした。風力を穀物に当てて、軽い殻などを遠くに飛ばし、重い穀物を手前に落とす。重量によって選別するわけだ。

 前例のない作業ラインを構築するため、石坂は全国の機械メーカーを渡り歩いた。通常、産廃業者は、大手商社に依頼してプラント一式を購入する。「この業界では、後で金銭トラブルになるケースが少なくなかった。だから、慣行として、商社をかませて取り引きをしていた」

 だが、石坂は父と一緒にメーカーを回り、品定めをして、個別に発注していった。メーカーは、どういうラインになるのか分からないため、「動作の保証ができない」とひるむ。だが、石坂は「保証はいらない」と言って現金を差し出す。相手は、断る理由がなくなる。

 様々なメーカーの機械を並べて、ラインを組み上げていく。だから、2005年に稼働が始まると、トラブルが頻発した。通常、産廃の資源を分別するラインは、コンベアの上に破砕した廃材を流し、人が選別し、機械でふるいにかける。そのため、ラインが止まることはほとんどない。こうした工程で8割程度が資源化できる。

 だが、石坂産業はさらに800メートルの分別ラインに乗せ、数十もの独自の工程で選別して、97%を資源化する。前例のない取り組みのため、2年が過ぎても年間9000分のトラブル停止があった。

 「機械をうまく動かすには、人を教育するしかない」。そう痛感した石坂は、ISOの取得を決め、挨拶も含めた社員教育を徹底していった。技術スキルの向上のため、「石坂技塾」と名付けた研修会を設け、50を超える講座を用意している。機械や重機を使いこなすなど、高い技能スキルを習得すると、賃金が高い職種に転換できる制度も導入した。社員の技能が向上したことで、機械のメンテナンスも外部委託せず、社員がこなしている。

独自のラインで、廃棄物から分別された「資源」

独自のラインで、廃棄物から分別された「資源」

 こうして業界に類を見ないラインを構築し、トラブル停止もほぼ解消した。そして97%という驚異的な再資源化を達成した。だが、まだ3%の物資は最終処分場に持ち込んでいる。

 「今、この3%をなくす技術を研究している」

 静電気を使って、残留物をより細かく分別しようと考えている。この計画に、機械メーカーは驚愕した。静電気を取り除く機械は作っていたが、「静電気を起こしてほしい」という要請は初めてだったからだ。

■下流から日本経済を変える

 究極の環境経営を目指す──。その理念に共感する社員と取引先が、ふるいにかけられるように残っている。そして、業績も社長就任時の23億円から41億円にまで伸ばした。昨年、石坂はついに代表権を持つことになった。それは、名実共に「最先端の産廃会社」の経営トップに立ったことを意味する。

 そして今、石坂産業にゴミを持ち込む業者が殺到している。バブル崩壊以降、業界全体が投資に及び腰になった。その間に、石坂産業は設備を一新したことになる。しかも、環境対策への規制が厳しくなる時代の流れにも乗っている。勢い、ゴミ収集業者は、都心に近い石坂産業に廃棄物を持ち込む。

 だが、産廃施設は、自治体の許可を取らないと処理能力や構造を変更できない。そこで、石坂産業は値上げをしながら、受入量を調整することになる。これについてくることができる取引先に、客層が絞られていく。

 「経営者にとって、『来てください』と言うよりも、『来ないでください』と言うことの方が難しい」

 それは石坂の本意ではない。廃棄物を持って行く場所がなくなれば、不法投棄につながりかねない。「処理能力を簡単に変更できない制度に問題がある」。石坂は、こうした硬直的な法制度の背景には、「廃棄物は汚いから、その現場を直視しようとしない姿勢がある」と見ている。

 また、日本社会には産廃業者への不信感も根深く残っている。法制度で業者を厳しく縛らなければ、野放図な処理に走りかねない、と。

 そんな現況を打破するには、信頼を勝ち得るしかない。だから、石坂は工場のラインを公開する。さらに、地域の自然環境を整備して、環境学習プログラムまで充実させ、企業人や住民を集めていく。環境意識の高い人々と交流することで、石坂産業の取り組みもより高い水準に磨き上げられていく。

「産廃業者の可能性とプライド」が石坂を動かす

「産廃業者の可能性とプライド」が石坂を動かす

 「産廃について一緒に考える機会を増やして、『自分の目の前から、ゴミがなくなればいい』という意識を変えていきたい」

 そう言う石坂は、企業向けの環境講座で講師を務めている。モノ作りの上流であるメーカーや、それを運ぶ流通業者などに、「下流」である処分現場を知ってもらう意義が大きいと考えているからだ。

 「そうすれば、モノ作りの段階から、最終処分や環境のことを考えてくれる」

 産廃から日本経済を変えていく──。石坂の壮大な構想は、かつてのダイオキシン騒動の中心地を一変し、さらに大きなうねりを生み出そうとしている。

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