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桑田とパリ~表現の自由とは「権力」から自分が自由でいられること

■「権力」のフランス、「自由」のフランス

パリでの事件の後、フランスで巻き起こった大きなデモが話題を呼んでいる。諧謔的なイラスト表現を根幹とする新聞社で虐殺が行なわれたことは悲劇だが(ご冥福を祈ります)、そこに300万人とも400万人とも言われる大群衆が集ったことについてさまざまな解説が行なわれた。

またそのデモの中に各国の首脳陣が含まれており、特にそこにイスラエルの首相がいたこと、あるいはもう少し意味を広くとり武器を持つ多くの国家権力の中枢がいたことから、このデモの欺瞞性を指摘するものもある。

今回の件でも明らかになっているが、「フランス」は常に二重の意味をもっている。それは、概念としてのフランスと、国家権力としてのフランス、というふたつの意味だ。

国家権力としてのフランスは、欧米価値観が支配する現代世界の中心の一つとして機能する。今回、各国首脳陣がデモの中に含まれていたのは、その世界中心国家の一つとしてのフランスを意味している。

一方、概念としてのフランスに、あの「自由」が含まれるようだ。特に今回は「表現の自由」と絡ませて論じられることが多かったが、日本で言われる表現の自由と、フランスで尊重される表現の自由liberte d'expression は根本的に違うことがわかった。

日本では、戦後は主として芸術表現の中で用いられることが多かった表現の自由だが、フランスではどうやらもっと「市民が勝ち取った根源的な武器」として使用されるようだ。

■「moi」が「moi」であること

その自由は、まずは権力(フーコー的幅広い意味〈規律権力や監視権力〉ではなく、「国家」「宗教」といった古典的意味)からの自由を指す。その背景には、国(王権)や宗教(教会)に縛られ続けてきた歴史があるだろう。それら権力に対して自由にモノを言える権利を主体的に勝ち取ってきたという歴史がそこにはある。

「主体的に」と書いたが、主体つまり「わたし/自分」を確立することでもヨーロッパでは長い時間が費やされている。それは主に哲学の分野であるが、主体の意味の是非はさておき、長い哲学的議論の後、カントによって「わたし」が意味づけられた結果「自分が自分である」ということの正当性が理論付けられたという背景もあるだろう。

だから、自分が自分であること、いちいち「moi(私はね)」と断ってから次に自分の意見を言うことは(たとえばこのブログなどは参考になりますalternativeway「表現の自由」)、僕も以前から不思議ではあったが、この頃は、「自分」の意味が確立するまでの長い長い歴史的背景と哲学的議論があるのだと思えるようになってきた。

表現の自由が侵害される・妨害されるとは、言い換えるとそうした「moi」が「moi」であることを妨害されるということだ。moiは容易にはmoiであることは許されない。moiは、長い歴史と議論と戦いを経て勝ち取った重要な概念で、その重要な概念は「フランス」という抽象概念によっても言い換えることができる。

このように、フランスとは「自由」の言い換えであり、だからこそ、国や宗教といった古典的権力によって踏み荒らされた「フランス」(という「自由」)を守るために、300万人も400万人も集まり、歩き、声を上げることができたのだと思う。

■「ジョンの魂」

日本では、紅白歌合戦で、サザンオールスターズが安倍政権を揶揄した歌を披露したことにより、極右デモのような動きが報じられている。

小さすぎる話で少し寂しくなるものの、桑田の行なったことは、権力から自分を自由にするという意味で、フランス的「表現の自由」であり、僕は全面的に賛同する。

そういえば昔、ジョン・レノンが暗殺されたあとで放送された(数年後だったかもしれない)ラジオで、桑田がジョンの名曲に合わせて、マイクの前でともに歌い続けた番組が僕は忘れられない。

選曲は「パワー・トゥ・ザ・ピープル」「ハッピー・クリスマス」「イマジン」「女は世界の奴隷か」「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」等、あまりにもジョン・レノンらしい名曲を次から次へとかけていき、画期的だったのは、ジョンの曲より、スタジオで桑田が絶叫する「パワー・トゥ・ザ・ピープル!」の歌声のほうが大きく、自分をそのジョンの曲に投影しきっていたことだ。

あれから20年以上たち、桑田は独特のスタンスを崩してはいないものの、今回の紅白歌合戦の件では、やはり彼は「ジョンの魂」を失った人ではなかったと感心した。

桑田は、現政権に対して違和感を抱いており、それをNHK年末の看板番組で表現せざるをえなかった。桑田という「自分」を、国という権力からは斜めに置き、そこから平和とハイライト(極右)を桑田の言葉でどうしても語りたかったようだ。これこそが表現の自由だと思う。

これを批判する人々は、権力から自由であるどころか、権力と密接につながっているという意味で、自分を賭けてはいない。自分を賭けること、それが表現の自由であり、権力から自分が自由でいられることだ。

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